第三届人民中国杯日语国际翻译(笔译)大赛赛题
组别:研究生组
项目:日译中
散 策
ある旅人が、詩人ワーズワースのメードに「ご主人の書斎を見せて下さい」と頼んだところ、彼女は「書庫ならここにありますが、書斎は戸外にあります」と答えたそうだ。詩人にとっては、散策する野や森、風や光こそが書斎だった。
『森の生活』を書いたH・D・ソローは、こう書いている。「ぼくは一日に少なくとも四時間――普通それ以上だが――あらゆる俗事から完全に解放されて、森の中や、丘、野を越えてさまよわなければ健康と生気を保つことはできないと考えている」。ソローにとっては、森や野をさまようことは生きることと同意語だった(アメリカ古典文庫「H・D・ソロー」)
散策を人生の核にしていたソローは「ぼくはこれまでの人生において、歩く術、つまり散歩の術を心得ている人には、一人か二人しか会ったことがない」といっているが、日本で「散策の天才」といえばだれだろうか、などと考えるのはたのしい。
勝海舟、高群逸枝、永井荷風、民俗学者の宮本常一、動物生態学者の宮地伝三郎、作家の田中澄江……。一高時代の三木清もよく寮の弁当を持って武蔵野をさまよった。雑木林やたんぼ道をあてもなく歩き回り、夕日が秩父の山に落ちるころに戻ったという。
筆が進まなくなったとき、思い切って歩き回ると、突然いい考えがひらめくことを私たちは経験で知っている。体育学の円田善英氏は歩くことと頭の冴えとの関係を調べた。適度に歩くことは、頭をすっきりとめざめさせること、情報処理の能力を高めることなどが実験の結果によってわかった。自由な散策は、足腰をきたえるだけではない。頭の老化を防ぐ役割をはたしている。
だが日本の道路の歴史は、散策者の自由を奪う歴史でもあった。車の洪水の中を歩くのはつらいし、暴走車におびえ、自転車と共有の狭い歩道を歩くのには神経を使う。ぶらぶら歩きをたのしめる静かな道がもっとほしい。
――『天声人語』より