组别:研究生组 项目:日译汉 正岡子規の有名な俳句 柿くえば鐘がなるなり法隆寺 こちらの俳句は1895年頃、正岡子規が日清戦争の従軍記者として赴いていた中国から帰国した後の作品です。子規の俳句の中でも、とりわけ有名な作品です。帰国後に病状が悪化した正岡子規は、神戸にて入院。その後、一時病状が落ち着いたため松山に戻った子規は、夏目漱石の下宿所で仮住まいをします。さらに病状が良化してきたため、帰京しようとした際の途中、奈良に寄った正岡子規。 この俳句は、そのときに詠われたものだとされています。「法隆寺に詣でた帰りに、近くの茶屋に寄って、しばしの休憩と柿を食べていたら、法隆寺の鐘の音が聞こえてきて、ああ、秋だなあと感じ入った」という意味です。 柿は正岡子規の大好物だったそうで、一度に5、6個は食べるのが通例だったそうです。そして、この俳句には前置きとして「法隆寺の茶店にて」という言葉があります。つまり、法隆寺の茶店で柿を食べていた正岡子規は、鐘の音色に秋を深く感じられたと詠み上げているのです。 しかし、この俳句の面白い所は、子規がその想像力によって詠んだ作品ではないかと言われている事にあります。当時、この日は雨であり、境内の散策などできない状況でした。さらに、正岡子規の病状からすると、法隆寺へ参拝に出かけるほどの体力はなかったという見解があるため、実際に法隆寺に出向いて詠んだ訳ではないという説が有力なのです。 なぜ、正岡子規は、そんな俳句を詠んだのか。 これには、掛け替えのない友、夏目漱石への礼を表した俳句だったのではないかという説があります。松山に教師として赴任していた夏目漱石は、正岡子規の療養生活中、色々と世話をしてくれたそうです。また、奈良への旅費の工面も、夏目漱石が手配してくれました。そんな夏目漱石の詠んだ俳句に「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」というものがあります。この正岡子規の俳句は、その俳句にかけて詠まれた俳句であり、二人の友情の証となるものであったのではないかと言われているのです。 こちらは1900年、正岡子規33歳頃の作です。この頃になると、子規の病状は非常に悪化したものになっていました。このため子規は療養に専念せざるを得なくなり、歌会なども中止するようになっていきました。こちらの俳句は、この時期の子規が行った数少ない歌会の中で発表された作品です。 「庭前の鶏頭が、だいたい14、15本ほどあるだろうか」 脚色や装飾はせず、写生にて俳句を詠むという正岡子規らしい端的な俳句です。しかし、だからといって、見たままをただ俳句にしているわけではないのが俳句の世界。俳句というのは、短い言葉の中に詠み込まれた風景を想像し、己の解釈に委ねることで、その世界観は数多へ広がりをみせるのです。 けれども、その自由に想像できる世界観から、この俳句の場合は、とても根深い論争を巻き起こすことになりました。それが有名な「鶏頭論争」です。発表後から評価の低かったこちらの俳句ですが、1931年頃になると、歌人・斎藤茂吉により、それまでとは反対の高評価を得ることになりました。その後の1949年にも、山口誓子や西東三鬼などが、価値のある俳句だと評価を上げる発言をしました。 その内容を要約すると、この俳句は、活き活きとした「生」を表現する庭前の「鶏頭」が複数乱立する様を、病床の正岡子規が詠むことで、対比の世界観を作り出しているというものです。しかし、それでも取るに足らない俳句だと主張する歌人や俳人たちも多くいました。その主な意見としては、正岡子規の生涯などを知らない人間が見れば、ただの情景報告の俳句に過ぎないというのです。 このように、長年にわたり歌人や俳人たちの間で、激しい論争が起きたのです。けれども、逆を考えれば、この俳句はそれだけ長い間、著名な俳人や歌人たちに注目され続けた俳句でもあるということです。真実として何を想い、何を込めて詠んだのかは、詠み手である正岡子規にしか分かりません。それでも、正岡子規が残した俳句の中で、これほど話題をさらった俳句は他にないのではないでしょうか。 いくたびも雪の深さを尋ねけり こちらの句は、明治29年の作で、このときの正岡子規は、東京の根岸にある子規庵で、すでに寝たきりという生活を過ごしていました。正岡子規は、この子規庵にて母と妹の篤い看護を受けたといいます。 「どれほどの雪が降ったのか、どれほど積もったのか、何度も尋ねてしまうものよ」病床にある正岡子規は、自ら雪の深さを見に行くことはできません。だから何度も、何度も家族などに尋ねてしまったわけです。この俳句からだけでも、正岡子規が雪が降ったことを子供のように喜んではしゃいでいる様子が窺えます。 そして、面白いのが、そんな正岡子規を見かねた弟子の高浜虚子は、明治32年、ガラス障子を子規庵に設置したというのです。ガラスになったことで、病床で寝たきりの正岡子規でも、庭の雪が見えるように、という心遣いなのでしょう。 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな こちらの俳句は、1896年に詠まれた「正岡子規の絶筆三句」の一つとも言いわれる有名な作品です。この俳句を含めた三つの俳句を書き上げた瞬間、そのまま筆を落として倒れ込んだという逸話も有名です。 「薬となる糸瓜が咲いたけれど、痰がつまって仏(死人)となる身には間に合わないだろう」 長いこと結核を患っていた正岡子規。当時、糸瓜は薬として使われていました。咳止めとしてや、結核の痰を切るのに、糸瓜の根本から採取できる液は効果があったそうです。つまり、薬として植えた糸瓜が咲いたけれど、もはや、自分には間に合わない。死を悟った正岡子規が、死の直前に残した最期の俳句なのです。因みに、他の二つの俳句は、こちらなのです。 痰一斗糸瓜の水も間に合わず をととひのへちまの水も取らざりき この三句を合わせると、このような意味になるのではないかと思います。 「薬となる糸瓜が咲いたけれど、どんなに効果のある糸瓜の薬水も、もはや痰を詰まらせ仏となるこの身には効果もなく、間に合うこともないだろう。だから、効果が高まるという十五夜である一昨日も、糸瓜の薬水は取らなかった」 なんとも切ない内容ではあるのですが、これを死に瀕した本人が詠み上げるという点に、子規の凄みがあると言えるでしょう。臨終の際まで、俳人として生き抜く。そこに、さすがは名を遺す俳人だと称賛せずにはいられません。
鶏頭の十四五本もありぬべし