芥川龙之介的上海行,幻想的破灭
上海の芥川龍之介――幻想の破滅
从明治末年到昭和初期,东京都北区的田端,便如同艺术家的“梁山泊”一样,汇居了一大批有梦为马的年轻人。明治末期から昭和初期にかけて、東京の田端は多くの芸術家が集う「梁山泊」であり、多くの夢を持った若者が住んでいた。在此后的岁月里,他们的名字横扫日本文坛、艺术界。包括作家芥川龙之介、室生犀星、菊池宽,思想家冈仓天心,画家竹久梦二、小穴隆一等。如今,名士风流已随雨打风吹去,原址上只余下一座田端文士村纪念馆。年月が経ち、彼らの名は日本の文壇や芸術界を席巻した。作家の芥川龍之介、室生犀星、菊池寛、思想家の岡倉天心、画家の竹久夢二や小穴隆一らだ。ただ今となっては名士の影も残らず、跡地に田端文士村記念館が建つばかりである。自10月1日开始,田端文士村纪念馆举办《芥川龙之介的生与死》展,《上海游记》开头部分的6页手稿,是本次展览的重点。10月1日から同記念館で企画展「芥川龍之介の生と死」が開かれている(2020年1月26日まで)。紀行文『上海游記』冒頭の自筆原稿6枚は、今回の展示の目玉の一つだ。芥川龙之介,中国读者对他最为熟悉的,大概是充满了妖气、狂气的《罗生门》与《地狱变》。而他最感兴趣的,则是中国的唐传奇和清志怪小说。在生涯140多篇作品里,有12篇都改自中国的怪谈,很擅长中为和用,旧说新写。芥川の作品で中国読者が最も知っているのは、おおよそ妖気の充満し、狂気的な『羅生門』と『地獄変』の2つだろう。だが彼本人が最も関心を持ったのは、中国の唐の伝奇小説や清(しん)の怪奇小説であった。芥川は生涯に140ほどの作品を生み出したが、その中の12編は中国の怪談を改編した作品だ。日本人になじみやすいよう書き直し、また過去作品を現代化することに非常に長(た)けていた。1921年,芥川龙之介以《大阪每日新闻》海外观察员的身份,前往上海,用了一百二十余日,游历了南京、九江、汉口、长沙、洛阳、大同、天津、沈阳等地,目睹了“老大国”步入民国阶段的第一个十年的现状,包括政治、文化、经济、风俗……并将自己的所遇所思所感,写成了一本《上海游记》。1921年、芥川は「大阪毎日新聞」の海外観察員として上海に向かい、120日余りかけて、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、大同、天津、沈陽などを巡歴した。「老大国」が中華民国になって10年に満たない最初期に、その政治、文化、経済、風俗を目撃した。そして自ら経験した出来事と所思所感を併せて記し、紀行文『上海游記』が誕生した。大概笔者最近与芥川龙之介有缘。在观览过《芥川龙之介的生与死》后,11月27日,又受邀参加了NHK放送中心的试映会,观看了《异乡人——上海的芥川龙之介》。NHK电视台用8K影像还原了100年前的中国“魔都”。其实就连“魔都”这个叫法,也是从日本作家村松梢风的上海游记——《魔都》而来。筆者は最近どうやら、芥川と縁があるようだ。田端の記念館で企画展を見た後の11月27日、NHK放送センターへ招かれてドラマ『ストレンジャー~上海の芥川龍之介~』の試写会に参加した。このドラマは8K映像で100年前の中国の「魔都」上海を再現している。(ちなみに中国でもよく使われる「魔都」という呼び名は、実は日本の作家、村松梢風による1923年の上海旅行記のタイトルに由来する。)本次拍摄的绝大部分是在中国完成,剧组里有180名工作人员都是中国人,占到了9成。影片制作讲究,负责配乐的稻本响,使用的是100前的钢琴;扮演芥川龙之介的松田龙平穿着的西装,是拓植伊佐夫按照100年前的缝纫法制成。ドラマの撮影は大部分が中国で行われ、スタッフの9割を占める180人が中国人だった。番組の制作には細部にまで気が配られている。音楽の稲本響は100年前に作られたピアノを使用し、芥川を演じる松田龍平が着るスーツは、デザイナーの柘植伊佐夫が当時の裁縫方法で作っている。
《异乡人——上海的芥川龙之介》
可到NHK官方网站收看该片的中文版与英语版
影片,从他抵达上海后下船的那一刻开始,黄包车司机如同抢匪,卖花的老太婆贪得无厌。芥川龙之介难掩失望。“现代中国有什么呢?政治、学问、经济、艺术,难道不是悉数堕落了吗?特别是艺术,嘉庆道光以来,有一件值得夸耀的作品吗?国民不分老幼却都在高唱太平盛世。诚然,在年轻国民当中也许能看到一点活力。然而,他们的声音纵然能在全体国民胸中回响,事实上也缺乏巨大的热情。我不爱中国了,即使想爱也不能爱。”
物語の冒頭は芥川が上海に到着して船から下りるシーンだ。人力車の車夫は強盗と何ら変わりなく、花を売る老婆の欲に底はなし。芥川は失望を禁じえなかった。「現代の支那に何があるか? 政治、学問、経済、芸術、悉(ことごとく)堕落しているではないか? 殊に芸術となった日には、嘉慶道光(かけいどうこう)の間以来、一つでも自慢になる作品があるか? しかも国民は老若を問わず、太平楽ばかり唱えている。成程若い国民の中には、多少の活力も見えるかも知れない。しかし彼等の声と雖(いえど)も、全国民の胸に響くべき、大いなる情熱のないのは事実である。私は支那を愛さない。愛したいにしても愛し得ない」(『長江游記』より原文ママ)他眼中的城隍庙是病态的绿色池塘,“那隆隆作响、斜着注入池塘的一股尿,是帝国没落的辛辣可怖的象征”。他从前读中国小说,看到不少浪荡子或神仙装扮成乞丐的样子,但现实看到的中国乞丐,“却浪漫的叫人退避三舍,膝盖上的肉腐烂得像剥开的石榴”。芥川の目に映る上海の城隍廟(じょうこうびょう)は、病的な緑色を広げた池だった。「その池へ斜めに注がれた、隆々たる一条の小便と、――これは憂鬱愛すべき風景画たるばかりじゃない。同時に又わが老大国の、辛辣恐るべき象徴である」(『上海游記』より)。彼が以前に読んだ中国の小説には、神仙が物乞いに化けている話が多かった。ところが実際の中国の物乞いは、「石榴(ざくろ)のように肉の腐った膝頭をべろべろ舐めていたり、――要するに少々恐縮する程、ロマンティックに出来上っている」。
出席《异乡人——上海的芥川龙之介》试映会的松田龙平
电影对《上海游记》里的场景和出场人物还原度极高。比如扮演《玉堂春》里苏三的名角绿牡丹,脸部妆容都没有褪去,“就将那漂亮的衣袖一抖,用手指擤了一泡鼻涕,摔在了地板上。”据说这位绿牡丹,其实是年轻时的白牡丹荀慧生。ドラマの場面と登場人物の『上海游記』の再現度は極めて高い。例えば、京劇『玉堂春』に登場する妓女の蘇三(そさん)を演じた名優、緑牡丹が楽屋で顔の化粧すら洗い落とさないまま、「美しい袖を翻(ひるがえ)して、見事に床の上に手洟をかんだ」シーンだ。一説によればこの緑牡丹は、若かりし頃の荀慧生(後の京劇の「四大名旦[女形]」の1人)であるようだ。比如章太炎那双如线一般的细眼,蜡黄蜡黄的脸,和稀稀拉拉少得可怜的胡须,以及客厅里高悬着的一个鳄鱼标本。
また、章炳麟(しょうへいりん 孫文の元同志で、辛亥革命を理論的に支えた思想家)の「糸のように細い眼」、黄ばんだ顔、「気の毒な程薄い」口ひげやあごひげ、そして彼の書斎の壁に引っ付いたワニの剥製。再比如大清遗臣郑孝胥,面色红润,腰板挺直,甘于清贫,却住着三层楼房,坐拥竹林香花,就连笔者也生了芥川之叹。“这样的一种清贫,我任何时候都甘于接受。”さらには清の遺臣、鄭孝胥(ていこうしょ)の血色のよい顔、腰はまっすぐで姿勢がよい姿。彼は清貧に暮らすが、3階建ての家に住み、竹むらのある庭には雪毬(せっきゅう)の花の香りが充満する。筆者もまた芥川と同じように感嘆を漏らしてしまった。「私もこう云う清貧ならば、何時身を処しても差支えない」。还有“道道非常道,天天小有天”里见到的书寓先生——爱春、时鸿、洛娥、天竺和林黛玉。芥川龙之介看南国美人,偏爱耳朵,甚至“对中国女人的耳朵颇怀敬意”。因为日本人的耳朵太平板,肉厚者居多,像长在木头上的蘑菇,常藏身于涂抹了发油的鬓发后面,而中国女子的耳朵是处在春风吹拂下的。加えてドラマには、芥川が小有天という酒楼で見た美人たち、愛春、時鴻(じこう)、洛娥(らくが)、天竺、林黛玉(りんたいぎょく)も登場する。彼は『上海游記』で南国美人を称賛し、特に耳を偏愛して「支那人の耳に、少なからず敬意を払っている」と記している。「日本人の耳は平すぎる上に、肉の厚いのが沢山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顔に生えた、木の子のよう」で、「昔から、油を塗った鬢(びん)の後に、ずっと姿を隠して来た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて来た」のだという。可以说,芥川龙之介的上海之行,不仅仅让他认识到了彼时在混乱、变革中挣扎的民国,也改变了他对日本的看法,甚至萌生了一些反战的意识。尤其是章太炎的一番谈话。芥川は上海旅行の中で、混乱と変革の中でもがく中華民国を見聞したばかりではなく、彼自身の日本に対する見方を変え、ひいてはいくらかの反戦意識が芽生えたと言っていい。この点で特に重要なのは、(日本への亡命経験がある)章炳麟との会話だ。章太炎告诉他,自己最讨厌的日本人,是那个家喻户晓的童话人物——桃太郎。“我最讨厌的日本人,是桃太郎,他联合鸡、狗、猴子去攻占邻岛——鬼之岛,难道邻岛上的鬼就没有自己的生活吗?他们安居乐业,热爱和平……”这真是令芥川龙之介诧异不已。章炳麟は芥川にこのように言った。「私が最も憎む日本人、それは桃太郎だ。彼は雉(キジ)、犬、猿と徒党を組んで島を占拠した――鬼が島を。ならば島の鬼には自分の生活がなかったというのか?彼らは落ち着いた暮らしをして楽しく過ごしていた、平和を愛していた……」。この考え方は芥川を本当に驚かせた。电影里没介绍的是,芥川龙之介在章太炎的启发下,于归国后的1924年,发挥旧说新写的特长,发表了小说《桃太郎》。ドラマでは触れられなかったが、芥川は章炳麟からの啓発によって、帰国後の1924年、過去作品を現代化する得意の技術を発揮し、彼自身の『桃太郎』を発表している。桃太郎号令狗、猴、山鸡这三个随从,闯入了犹如世外桃源一般的鬼之岛。“那里椰林耸立,极乐鸟婉啭,是一片美丽的大自然乐土。生活在这片乐土上的鬼们当然也是爱好和平的鬼。”桃太郎见鬼便杀,狗见鬼便咬,山鸡见到鬼的孩子便用尖锐的喙戳死,猴子见到鬼的女人们,在绞杀之前总要先凌辱一番。芥川の手による桃太郎は犬、雉、猿に号令をかけて、この3匹を従えて桃源郷のごとき鬼が島に乗り込んだのである。島は「実は椰子(やし)の聳(そび)えたり、極楽鳥の囀(さえず)ったりする、美しい天然の楽土だった。こういう楽土に生を享(う)けた鬼は勿論平和を愛していた」。桃太郎は鬼を見ては殺し、犬はただ一噛みに鬼の若者を殺し、雉も鋭いくちばしに鬼の子を突き殺した。猿は鬼の娘を絞め殺す前に、必ず凌辱(りょうじょく)を恣(ほ)しいままにした。一切都仿佛是日后侵华战争的预言与写照。把书房命名为“我鬼窟”的芥川龙之介,或许一早就知道,谁才是真正的鬼子。まるで後年日本が中国を侵略する予言をそのままに描写したかのようだ。自分の書斎に「我鬼窟」と命名した芥川には、もしかしたら既に誰が本当の鬼なのか分かっていたのかもしれない。电影,结束于李汉俊的死讯传来。《桃太郎》,结束于鬼的不肯屈服,他们在柔美的月光下计划着如何复兴鬼之岛。芥川龙之介,结束于1927年7月的服药自杀,死时还穿着在上海买的布料制成的浴衣。ドラマは、芥川が上海で面会した李人傑こと李漢俊(1902年に14歳で来日。東京帝国大学を卒業し、帰国後は21年の中国共産党設立に関わる。27年に軍閥により殺害)の訃報で幕引きとなる。芥川版『桃太郎』の結末では、鬼は屈服することなく、美しい熱帯の月明かりの下で鬼が島の独立を計画していた。芥川自身は27年7月に服薬自殺した時、上海で買った布地で仕立てた浴衣を着て、こと切れていたのだった。最新、最全的日语资讯,尽在日语世界网(http://www.jpworld.cn/)!